ちょっと書き足りなかったので追記。カワモトさんが気に入るとは思わなかったなあ。
恋愛小説として楽しめたのは確か。名言の
「めしどこか たのむ」
は非常に生々しいし、それ以降の経過も(若干脚色の匂いはすれど)非常にありがちだ。ありがちであるがゆえに、商用メディアには描けない類の話だと思う。描いたら陳腐になってしまう。
それ以上に、見ず知らずの人たちが現実の体験を共有していくプロセスそのものに惹かれる。最近どうもこういう、人のつながりに関する事例に強く惹かれるのだ。とくに、行きずりの人たちがある種の信頼関係を短期間で築き上げ、目標とカタルシスを共有するに至る、という、まあ、わりとありがちなパターンにひどく心を揺さぶられる。
...なぜかは分かっている。うーむ。
さて寝るか。
TBどーもです。<br>最後の方はまじで泣きそうになっちゃいましたよ。<br>たしかに物語じゃないからそーなのかもね。
ほかのスレも読んでみましたが、うーむ、電車男が一番良くできてますね。
http://dogshave.web.infoseek.co.jp/memo/archives/000172.html<br>イヌゾリメモ<br>遅れて語る電車男<br>もうとっくに旬を過ぎた話題なんだろうけど、電車男。最初に知ったあしたにさんの日記からはちょっと日が経ってしまったけれど、それでも強引に日付の設定を戻して電車男。 何のことやら?という人は、まずはこのまとめサイトを見ていただきたい。2ヵ月にわたるスレからの抜粋だから、恐ろしく長い。が、非常に生々しい。彼女いない暦=年齢のさえない男が、電車で嫌がらせされている女性を助け、その女性と付き合うにいたる——という、小説やゲームのシナリオだとしたらあまりにも陳腐なストーリー。けれど、きっとこの話が妙に感動的なのは、2chの名もない連中が彼を助け、励まし、煽り、彼が成長していくストーリーを共にした、っていうところにあるんだろう。僕はこれを恋愛小説というより、青春小説として読んだ。 ネットではいろんな意見があるみたいだけれど、このことについては恐がり−模倣犯のテラヤマアニさんの意見に激しく共感する。「くすぶってるやつらと共に光射すところにいきたい」というのは、すごくいい言葉だと思う。気がつけば、僕の周りにも、何となくくすぶっている人たちは多いように感じる。僕自身も、ひょっとしたら、そうなのかもしれない。時代のせいや不況のせいにするのは簡単だと思う。けれど本当はそうじゃなくて、抽象的な物言いをすれば、ただ走るための靴が見当たらないだけ、ということなのかもしれない。テラヤマアニさんの回顧録も必見。僕はまるで村上龍の『69』みたいな青春小説として読んだ(村上龍の方が数段ナルシスティックだけど)。 なんだろう? 青春という言葉にはノスタルジックな生臭い匂いがあってイヤなのだけれど、その言葉にしかないある種のパワーに、僕はもう一度惹かれはじめているのだろうか。...